ザ・トライブ

監督

WHAT?
「サイレント映画へのオマージュを表現することは昔からの夢だった。一言も発せられることなく、みんなから理解される映画をつくることが。主人公が静寂を保つ映画ということではない。
というのは結局のところ、サイレント映画の中でさえ、役者たちは決して物静かにしていたわけではなく、活発にコミュニケーションを取っていた。所作や非常に表現力にとんだボディランゲージで、一言も発することなく、感情や心情を伝えることを実現していた。これがまさしく、私が常に耳が聞こえないもしくは不自由な人たちの日常を、吹替なし、字幕なしで、本物の聾唖者たちと関わって映画をつくりたかった理由だ。」

WHY?
「私は20年前にはすでにこの方向性で映画を撮ろうと考えていた。これはサイレント映画への、役者たちが身振り手振りによって語りかけていた時代へのオマージュである。
実際には毎年こうしたオマージュのかたちで映画がつくられている。でも私が見たところそういった映画はすべて、サイレント映画の基本的な形式に従っていた。私はそうではなく、リアルでありのままのサイレント映画を撮りたかった。言葉が使われることがなくても簡単に理解できるものを。『ザ・トライブ』では、私は単純にある別の手段にしたがった。手話は、まるでダンスやバレエやパントマイムや歌舞伎といったもののようである。登場人物たちが意思を伝え合う。それだけだ。私はこの言語を魅惑的だと思う。そして心からこの感覚を観客と共有したかった。」

HOW?
「ある種未来の『ザ・トライブ』の試験的な作品とも言える、短編作品『DEAFNESS』にとりかかっていた間、ウクライナの聾唖者のコミュニティーや彼らの団体の代表者たちとたくさん接点を持った。私はまたより非公式な「裏」のコミュニティーのリーダーたちにも引き合わされた。彼らが私に明かしたのは、孤立した世界の現実や、おそらく最も閉鎖的なもののひとつであろう、聾唖者や聴覚障害者のコミュニティーの慣習やしきたりだった。」

WHO?
「私は決してこの映画を声の出る俳優たちでつくろうとは考えなかった。それではまったく違ったものになってしまうだろう。人は話をするとき、発音するのに必要な顔の筋肉しか使わないが、聾唖者はコミュニケーションをとるために体全部を使う。このことが彼らを唯一無二のものにしている。私たちはキャスティングに1年かけた。
主にソーシャルネットワークを駆使して、ロシアを手はじめに、ウクライナ、ベラルーシと300人近い人物に会うことができた。ウクライナには聾唖の役者の劇団が8つあったのだが、プロの役者には声をかけなかった。
この映画の役者の大半がストリートにたむろしてるような少年少女たちで、彼らの多くは恵まれない家庭に育った子たちだった。キャスティングを進めていくにあたって最も重要なことは、完成された人物を探すのではなく、カリスマ性があり、人の注意を引きつける魅力のある人物を探すことだった。撮影は6ヶ月かかった。出演者たちは人生に残るまたとない貴重な経験をしたと思う。もっともそれは私にとっても同じだが。」

WHERE?
「撮影の主要パートはキエフで行った。私が子供時代を過ごした地区だ。大半の建物が第二次世界大戦後、ドイツ人捕虜によって建てられた。キエフの郊外で、大部分の建物が赤レンガで建てられている人気の地区だ。ニューヨークのいくつかの地区に何となく似ている。撮影はヤヌコビッチ政権に対する反政府デモの前に始まった。そしてロシアによるクリミア支配の後に終わった。状況は緊迫していた。役者を含め撮影チームの何人かのメンバーは、空き時間に反政府デモや暴動に参加していた。何日かは道を塞ぐバリケードのせいで撮影機材をのせた車両が通れず、撮影を中止しなければならなかった。ある意味、リハーサルと撮影は、闘争地区から逃れることにつながった。」

NO SUBTITLES?
「構想の時点からすでに決めていた。私から見れば、観客が一語一句忠実に会話を理解できなくとも、パントマイムや歌舞伎のように全体として何が起こっているのかがわかることがむしろ重要だった。『ザ・トライブ』は、おそらく催眠状態と言ってもいいような潜在意識下から新しい感情を呼び覚ましてくれるように思う。」

ザ・トライブ